こんにちは、大庭です。
晴海の昔を辿るシリーズ。
皆様、晴海で万国博覧会が開かれようとしていた事をご存知でしょうか。
戦前の話です。
1862年の第二回ロンドン万国博覧会視察から始まった日本と万博の関係。
1867年の第二回パリ万博、1873年のウィーン万博では日本からの出展も行われました。
西洋に肩を並べるべく、日本でも万博を開催しようとする動きは明治時代からありましたが、それが具体化したのは昭和に入ってからでした。
日本初の万博は、昭和15(1940)年の開催が決定され、紀元2600年を記念した国家の一大事業としてプロジェクトがスタートしたのです。
万博の開催期間は3月15日から8月31日までの170日間で、期間中の総動員は4500万人を見込むなど、ほんまかいなと思わせるほど壮大なプロジェクトです。
なにせ、日本の人口がやっと1億人を突破した時代ですから。(1940年の国勢調査では内地人口7311万4308人、外地人口3211万1793人。外地の人口がこんなに多いのは、時勢を感じさせられます。)
会場は東京・横浜で、東京ではここ晴海の地(月島埋立4・5号地=面積約45万坪)が開催地として選ばれました。
隅田川にかかる勝鬨橋も、都心から会場にアクセスするルートとして建設されたものです。
(↑)万博会場模型。
日本初の万博計画は、それこそ2020東京オリンピックレベルで盛り上がったらしく、雑草生い茂る予定地には多くの木々が植樹されるは、宝くじは売り出されるは、少年少女向け雑誌で特集が組まれるは、万博行進曲は巷に流れるは、日劇ダンシングチーム&淡屋のり子さんは踊りまくるは、それはもう大変な騒ぎだったとか。
そして、晴海にはいち早く「1600坪の大建築」と謳われた万博事務局が建設されました。
入場券(入場料10円)も発売されるまでに準備の進んだ万博ですが、ここまで来て残念な事になってしまいます。
日中戦争の激化による資材不足や欧州での戦火による参加国減少、そして軍部の反対により、あえなく中止の憂き目に遭ってしまったのです。開催まであと2年の、昭和13(1938)年の事でした。
世界中で戦争の火の手があがり燃え盛る時代に開催されようとしていた東京万博。そのテーマであった「東西文化の融合」と言う言葉が、空しく響きます…。
蛇足ながら、この年は東京でのオリンピックも開催される予定でしたが、そちらもボツ。
しかし、同じ年に万博とオリンピックを開催しようとしていたとは…色んな意味で相当気合が入っていたのですねぇ、当時の日本は。(人はこれを大風呂敷と言う。)
今では、晴海ふ頭の入口に立つたった一枚の看板が、世が世ならこの場所で日本初の万博が開催されていたかもしれない事を伝えるのみです。
”看板や つわものどもが 夢の跡。”
ちなみに、事務局の「大建築」は陸軍が傷病兵収容所として使うことになり、植樹されていた木々も陸軍病院に寄付されてしまいました。
日本初の万国博覧会の開催は、戦後昭和45(1970)年の大阪万博まで待つ事になります。
面白い事に、中止になった東京万博で大量に売れていた入場券は、この大阪万博や、なんと2005年の愛・地球博でも使用可能だったそうです。
この「幻のチケット」は、大阪万博で約3,000枚使われたのはまだ何となく判る気もしますが、愛・地球博でも80枚ほど使われたと言うのは驚きです。(65年後ですよ!!)
2020東京オリンピックに向けて、建設ラッシュが始まっている現在の晴海。74年以上前も、こんな活気が晴海を覆っていたのかもしれません。
今度は平和裏に開催されることを祈るばかりです。