こんにちは、大庭です。
晴海界隈をブラブラ歩き回る「ブラタケト」、
今回は、「芥川龍之介生誕の地」をご案内致します。
芥川龍之介と言えば短編小説の名手。
私も子供の頃に「鼻」「羅生門」「杜子春」「蜘蛛の糸」「河童」「地獄変」など、多くの作品を読んだ記憶がございます。
「僕は生まれてから20歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。」と、龍之介は「本所両国」という小品に記していますが、
実際は、生まれたのは築地入船町、現在の明石町でした。正確には中央区明石町10番、当時では東京市京橋区入船町8丁目
1番地が彼の生誕の地です。
明治25年(1892)3月1日、辰年辰月辰刻の生まれにちなみ、龍之介と名付けられました。
彼の出生当時、父新原敏三は牛乳販売会社「耕牧舎」を経営していました。「耕牧舎」は、もともとは実業家渋沢栄一が
興したものです。当時、日本の牧畜業が不振なのを憂慮した彼は、明治12年、神奈川県から箱根仙石原に土地の払い下げを受けると、牧場耕牧舎を開き、牛乳敗売に乗り出しました。そこで働いていたのが、龍之介の父でした。
渋沢の信頼を得ていた敏三は、販路を拡大するにあたって、東京方面の販売管理責任者となり、築地入船町に本店を置きました。これが龍之介の生家です。
(中央区観光協会HPより)
明治の初め頃の築地入船町は、外国人居留地でした。今でも通りの名にその名残があります。
江戸幕府は安政5年(1858年)に欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大阪の開市を
取り決めました。居留地は開港・開市の土地に設けられた条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区でした。
江戸(東京)の開市は明治元年(1868年)、明治政府になってからで、この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めました。
築地居留地は商館の多かった横浜や神戸などは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・教師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。
このため、築地居留地は日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していました。
(中央区教育委員会より)
当時、外国人居留地には日本人は住むことは出来ませんでしたが、龍之介の父は外国人相手に商売をしていたため、例外とされていたのです。
なお、築地外国人居留地は、明治32年の条約改正による治外法権撤廃で廃止されました。
明石町には現在、聖路加国際病院があります。
聖路加国際病院は、外国人居留地にイギリスの宣教医師が設立した「健康社」と言う病院が前身だそうです。
聖路加国際病院の敷地の一画に、そこが芥川龍之介の生誕地であることを伝える看板があります。
ただし、龍之介がここに住んだのは僅かな期間のようです。
生後7ヶ月で母親が病気になり、龍之介は本所にある母の実家、芥川家に引き取られました。
そして、11歳の時に実母は亡くなり、翌年には正式に叔父の養子となり、芥川姓を名乗るようになったそうです。
旧士族である芥川家は、代々徳川家に仕えたお数寄屋坊主の家柄と言いますから、それなりに由緒は正しい。
家人は芸術・演芸を愛好し、家中には江戸の文人的趣味が残っていたそうです。そんな雰囲気が、龍之介の文才を開花させる土壌になったのかもしれません。
さて、聖路加周辺には、他にもさまざまな史跡が点在しております。
天気の良い秋の休日などに、ぶらりとお散歩してみるのも宜しいかもしれません。